根子町人形とは2
根子町人形の作られた清水町村はどんなところだったのでしょうか?
人形を再現すると思い立ったものの、実は福島市内に行くことはありましたが清水町を歩いたことはまだないのです。現地に行くことはとても大事なことだと思うので、今後機会を見て実際に歩く予定です。
そのような状況で、更に資料も少ない中ですが、(只今勉強中なのでご了承下さい…)今手に入る資料を基に少し書いてみようと思います。
まずは上記にある絵図 『大日本國東山道陸奥州驛路圖』5 秦檍麻呂(1764-1808)圖、を見てみます。図をみると清水町村は山に囲まれており、戸数50、旧根子町と記され、周辺の様子(山間の宿場であった)がわかります。
次に「清水町村方差出大概帳」天明8年(1788年)を見ていきたいと思います。
「村方差出大概帳」とは主として領主・代官が就封した時に村の概要を知るため提出させたものです。
そこには、村高や住んでいる人の職業、産物など、様々なものが書かれ、読んでいくと面白いのですが、(長くなるのでご興味のある方は参考資料を載せておくので調べてみてください)
その中に土の質について書かれてあり、清水町村は、
「当村之義ハ土目ハ赤ねた土に御座候而悪田に御座候」とあります。
赤土は火山灰の分布地帯に見られる褐色の土層で、酸化鉄を多く含んだ粘土質の土です。粘土質の土地なので耕作するのには向いていない土地質(悪田)であることがわかります。
「すぎのめ」という杉妻地区史跡保存会が発行している冊子の中にも、近年の根子町の話が書かれており、コンクリート舗装になるまでは長雨や雪解けのために道路がぬかるんで、馬車曳きは休日となることもあったそうです。
そして「信達二郡村誌」をみていきます。こちらは近世各藩で編纂した風土記や村明細帳の項目に新たな項目(土地状況・民業・物産の生産状況等)を加え明治初年から作成されたものです。(清水町村については明治12年7月(1879)稿成とあります)
こちらに書いてある清水町村(一部)は
・戸数 65
・人数 319
・田 3町7反
・畑 24町9反
・民業 男農桑 運送夫35戸 食店5戸 馬商3戸 外
とあります。
田が3町7反とあり、ほとんど作られておらず、養蚕、運送、食店などを生業にしていました。
民業のところの「外」には葺匠4戸などとともに「土偶2戸」と書かれています。
これが根子町人形製作している2戸、ということのようです。
このような宿場町で根子町人形は作られていました。(「根子町人形とは」3 へ続く)
(参考)
・『大日本國東山道陸奥州驛路圖5巻』[写]秦檍麻呂秦国立国会図書館デジタルコレクション
・『福島市史第8巻』(近世資料第2(資料編第3))福島市史編纂委員会(1968)
・「すぎのめ」 第9号 福島市杉妻地区史跡保存会(編)(1986)
・『福島市史資料叢書 第36輯 (信達二郡村誌 1)』福島市史編纂委員会 (1982)
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